ヴィクターの逃避行

 ヴィクターは、ジュスティーヌとウィリアムを捜し出して、服を着せ、靴を履かせた。二人ともとても喜んだが、ヴィクターのことを何一つ覚えていないことが寂しい気がした。そこで、家へ連れて帰った。何か思い出すのではないかと思ったのだ。

 ここでみんな一緒に暮らしていたことを話して聞かせたが、二人はまるでおとぎ話を聞いているような顔をしていた。一度失われた記憶を取り戻すことはできないのだろうか…。ヴィクターはそう考えて、あきらめかけていた。そこへ、一人の男が訪ねてきた。

 それは、ジョナサンだった。
 「あの怪物に騙されてはいけない」
 「あなたは一体誰なんですか?」
 「君たちを遠くから見守っていた者だ。みんな、早く逃げるんだ」
 「どこへ?」
 「今は時間がない。とりあえず酒場へ行こう」
 「酒場?」

 店主が困った顔をしている。
 「ここは、お人好しのオヤジがやってるマジックバーじゃないんだけど」
 「とりあえず、ここしか思い付かなかったんで…」
 「で、御注文は?」
 「そうだな、『死者の書』を一冊」
 「あいにく、あの本はもう図書館に返しちゃいましたよ」
 「えーっ?」
 「そんな顔しないで。また借りてくりゃいいんでしょ…」
 店主は出て行った。

 ジョナサンは、ヴィクターに言った。
 「あの怪物は、君の大切な人たちの命を狙っている」
 「何ですって?」
 「そうやって、パスタ脳の仲間を増やそうと企んでいるんだ」
 「ああ、何てことだ!」
 「君たちさえ姿を消してしまえば、やつには何もできない」
 「でも、それでは…」
 「大丈夫だ。君がいなければ、君の大切な人を殺すことには何の意味もなくなるんだ」
 「でも、あいつはどこまでも追いかけて来るのでは?」
 ジョナサンは、自信たっぷりに、こう言った。
 「君たちには、まず名前を変えてもらおう」
 ジョナサン・キャロルは、ヴィクター・フランケンシュタインにこう言った。
 「君は今日から、フランクだ。マルティン・フランク」
 無理やりこじつけたな。
 「ジュステーヌは、アンネ・フランク…」
 おいおい、それは違うだろ。
 「あれ? アンヌだったかな…」
 それも違うって。
 「アンナ・フランス。マーシャル・フランスの娘だ」
 やっぱり、そうなるよね。
 「そして、行き先は、新大陸アメリカだ」
 ウィリアムの名前は…?

 そこへ、店主が帰ってきた。
 「いやあ、何故か分からんけど、あの本は貸し出し中だったよ」
 「えーっ!」
 「その代わりに、これを借りてきたんだけど…」
 それは、こんな書き出しの本だった。

(カ)の人の眠りは、徐(シズ)かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

『死者の書 身毒丸』(折口信夫 著/中公文庫)

 そんなわけで、酒場の奥で作者が頭をかかえている。
 「いくら何でも、無理だよ、これは…」

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このページは、かみ かずしげが2009年8月20日 23:39に書いたブログ記事です。

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