封筒から取り出した『ほらふき男爵の冒険』をぱらぱらとめくっていた伯爵は、急に険しい表情になった。日本語は読めない筈だから、挿し絵を見て何か不穏なものを感じたのかも知れない。
「これはけしからん本じゃ」
伯爵はそう言って、その本を蝋燭の火で焙り始めた。ジョナサンは思わず伯爵の手から本をひったくった。
「何てことをするんですか!」
すると伯爵は、また元の穏やかな表情に戻った。
「それでは、当家の歴史について少し語ろうか」
「われらセクリー人には、主君のために身を打ち捨てて、獅子奮迅に戦いぬくという、雄々しい血が流れておる。これがセクリー人の誇りじゃ。(中略)そのアッチラの血が、わしのこの腕に(と伯爵は高だかと腕を上げて)流れておるのじゃ。さればさ、われら征服民族、それを誇りとしておるのに、なんの不思議があろうぞ。(中略)それほど天下に威名をとどろかしたわれらが民の一大恥辱、ワラキア人とマジャール人の旗印が三日月の旗の下におろされたのは、いつであったか? (中略)時降ってわれら一門の分かれが、ふたたび河を渡ってトルコに押し入った際、陰に陽にそれを励まし助けた者こそは、たれあろう、かく申す不肖ドラキュラではなかったか? すなわち昔ワガハイが、リトアニアのプルツォボフスキー伯が領内の豪壮な屋敷に招かれた時の事、種付け所から着いたばかりの血統書付き若駒をみるとかいって紳士諸君は出ていったのだが、ワガハイ客間に残り貴婦人方と一緒にお茶をよばれておった。すると突然、下で騒ぎが起り悲鳴がきこえる。ワガハイ急いで階段をばかけ降りる。みれば件の馬が手のつけられぬくらい暴れていて、誰一人、近づこうとも乗ってみようとも、ようせんのです。(中略)そこでワガハイ一跳びヒラリと、馬の背にまたがったときは、誰の顔にも不安と憂慮が漂ったもんだ。なにワガハイはこの不意打ちで馬の度肝を抜いた、のみならず、ワガ馬術の秘技を尽くして大将の気を完全に鎮め、ワガ意に従わせてしまったのでありますヮ。(中略)お蔭でワガハイ貴婦人方ならびに伯爵殿のおぼえいと目出たく、伯は彼一流の丁重さで、この若駒を自分からの贈物として受けてはくれまいか、これに鞍おきトルコへ出陣してはくれまいか、とワガハイに頼むのでありましたが、折りしもミュニッヒ伯爵指揮のもと、勝利と征服めざしトルコ遠征間近、ときたもんでありました。
『吸血鬼ドラキュラ』(ブラム・ストーカー 著/平井呈一 訳/創元推理文庫)
『ほらふき男爵の冒険』(ビュルガー 編/新井皓士 訳/岩波文庫)
いつの間にやら、伯爵の語りが男爵の口調になっていた。ジョナサンの背筋に冷たいものが走った。さっき伯爵は一人暮らしだと言っていなかっただろうか。ということは、この城の中には今、伯爵と自分以外に誰もいないはずだ。だとすると、あの男爵は幻だったのか…。いや、今、目の前で熱弁をふるっているのは紛れもなく男爵その人だ。ということは、つまり伯爵は…。
ここでまた「ネットで注文しなきゃ」なんて言って慌てふためくとでも思いなさったか? そんな先の読めないバカタローと一緒にされるとは心外だな。ボンジュール!


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